2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」は渋沢栄一の生涯を描くドラマです。
渋沢栄一は江戸時代に現在の埼玉県深谷市血洗島の豪農の息子として生まれました。
農民から尊王攘夷(じょうい)で武士になり、幕府を倒そうとしていたのに徳川慶喜の家臣になり幕府に入ります。
幕府が倒れた後、明治維新を経て新政府にスカウトされ、その後は実業家に転身しました。
「近代日本経済の父」と呼ばれるようになっていく渋沢栄一という人物の人生のおもしろさにひかれNHK大河ドラマの主人公に抜擢されたのです。
「青天を衝け」タイトルの由来は?
このタイトルは、渋沢栄一と尾高惇忠の共作の漢詩集「巡信紀詩」の中の「内山峡」の一節からとられています。
タイトルの「青天を衝け」は渋沢栄一が青年の頃に「藍玉」の商いで信州に行くために通った佐久市の「内山峡」を詠んだ漢詩からつけられました。
栄一の家は藍玉の製造販売も家業としていました。父の市郎右衛門は、秩父や上州、さらに信州まで取引先を拡大をしていました。
藍玉の売り先は紺屋になります。
安政5年(1858)10月に、渋沢栄一は尾高惇忠と一緒に信州に商売の旅にでます。その時に二人で作った漢詩を収録したものが「巡信紀詩」です。
藍玉をまず紺屋に送り、盆と暮にその代金を回収するという掛け売り商売をしていました。
さらに春と秋にも取引先を訪問していたため、年4回、各地の紺屋に訪問をしていたようです。
「巡信紀詩」は、この信州の旅に出かけた際に作った漢詩をまとめたもので、漢詩のほかには、序文と跋(バツ:書物の終わりに書く文)があり、序文を尾高惇忠が書き、跋を渋沢栄一が書いています。
「巡信紀詩」のタイトルは「信州を巡る旅で詠んだ漢詩による紀行文」と推測されます。
収録された漢詩の題に「吉井」「内山峡」「平賀」「下県寄木内芳軒」「望月客舎」「上田懐古」「西原晩望」「横川紅楓」「鷹巣山北望」という地名がわかるものがあります。
この地名からたどると、二人の旅は、血洗島を出てから下仁田街道をたどり吉井を通り信州に向かい、途中にある内山峡で遊びました。
佐久に到着後、さらに上田、真田にまで足を延ばし、帰りは、小諸(西原)を通り、横川・安中など中山道を通り帰ってきたものと推定されます。
こうした漢詩による旅の記録「巡信紀詩」の中には、栄一と尾高惇忠が作詩した14作の漢詩が交互に収録されています。
その5番目に収録されているのが「内山峡」です。
「内山峡」は、信州耶馬渓と呼ばれ、屏風岩、姫岩などの奇岩が見られる名勝地で、その景観を詠いつつ、栄一の気概も詠い込んだものであり大変長いものでした。
その中の一節に「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」という部分があります。
これを読み解くと次のように書かれていました。
勢いは青天(せいてん)を衝(つ)いて
臂(ひじ)を攘(まくり)て躋(のぼ)り
気(き)は白雲を穿(うがち)て
手に唾(つば)して征(ゆ)く
まさに青年期における栄一の未来に対する意気込みが感じられる一節です。ここから大河ドラマのタイトルが「青天を衝け」とつけられた由縁です。
逆境に負けることなく突き進んだ栄一の人生とも重なります。栄一に関する資料をしっかり読み込んだ人がタイトルをつけられたのだと思われます。
渋沢栄一の波乱万丈の人生とは?
渋沢栄一は1840年(天保11年)、時は江戸幕府第十二代将軍・徳川家慶の治世の生まれ。1931年に91歳で没するまで江戸、明治、大正、昭和と激動の時代を生き抜きました。
その人生もまさに激動そのものでした。
武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)の豪農の息子として誕生し、若き日は尊皇攘夷(じょうい)派の志士として活動。
途中、一橋慶喜の家臣となり、慶喜が第十五代将軍となったことを機に幕臣になりました。時代が明治になると、新政府の要請で官僚となり、その後は官を辞して実業家に転進しました。
電気、ガス、鉄道、病院など、おおよその企業の設立には渋沢栄一が関わっていますが、渋沢栄一の恩恵を受けていることはあまり知られていません。
渋沢栄一の足跡
1.農産物の原料の買い入れや商品の販売を行い、藍の売り歩きや仕入れといった農家としての生産知識だけでなく、販売にも携わったことで商売人としての才覚が磨かれていった。
2.幕末時は尊王攘夷に寄せ、徳川慶喜の将軍になる前に仕え、フランス万博に行った。
3.日本の近代化への強い危機感と使命感を持っていた。
4. 470の会社の設立援助育成するにあたって、株主に長期の観点で、対応するよう抜群の説得力を発揮。明治になり政府の測量・鉄道・税率など、35項もの項目に携わる。
5.官尊民卑の打破など、社会変革の必要性への認識と、それを実現しようと具体的な活動をし、これが後の財界につながる。第一国立銀行の頭取になり、その後も500以上の企業の設立に携わる。そして「銀行の神様・日本資本主義の父」と言われる。
6.企業の設立・運営をあくまで近代日本育成の手段とし、私利私欲を排除。渋沢財閥を作ることはなかった。
7.文化事業に対し、長期にわたって取り組み。貧困や、震災孤児などを救うためにも活動をした。
東京養育院(貧困救済事業)の運営、一橋大学(を始めとする多数の教育機関の育成強化、そして、幕末時代に仕えた徳川慶喜公の復権ならびにその伝記の編纂。
600余りの社会事業にかかわり、中には60年に及ぶものもあります。
しかし、渋沢がその本領を発揮するのは明治6年(1873)に大蔵省を辞め、民間人となってからのことです。
大正4年(1916)に実業界を引退した渋沢は、自身が説いた「道徳経済合一説」を実行に移し、教育機関や社会事業へ惜しみない支援を行いました。
渋沢が支援した事業は、約600にものぼるとされています。
渋沢が携わった社会事業は分野も多岐に渡るものでしたが、代表的なところでは東京商科大学(現在の一橋大学)、日本赤十字社、明治神宮奉賛会、帝国劇場への支援などが挙げられます。
ここに挙げた以外にも現代に繋がるさまざまな社会貢献活動を実施しており、実業家として得た利益を惜しみなく社会に還元するという資本家の理想的な振る舞いをしていたといえます。
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渋沢栄一が若き日に培ったもの
この功績は彼の若い時のどのような経験からもたらされているのでしょうか?
・幼少期に学んだ論語を初めとする学問の影響
常に「論語」を処世の基本理念とし、道徳経済合一説、いわゆる「右手にそろばん、左手に論語」を唱えて、さまざまな事業に取り組みました。渋沢家で養った商才。説得力は必要ですね。
・幕末時代にフランスに1年余り滞在し、近代国家の在り方とその機能を、親しく観察する機会を得たこと
・明治政府の民部省改正掛として数々の制度の創設、制定にかかわった経験。
武士階級の生活の支援への緊急支援策の作成には、何日も続けて、ほとんど徹夜の状態で仕事をこなしていたようです。
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さいごに
江戸から明治という時代の転換点の中心人物として活躍し、その後も現代日本の礎を築き、“日本資本主義の父”とも称される渋沢栄一。
NHKで第60作を数える大河ドラマの歴史の中で、渋沢栄一が主人公となるのは今作が初めてだそうです。
これまで大河で描かれてきた人物とは違って、死ぬ瞬間の”はかなさ”だったり”派手な部分”はないのですが、泥臭くても最後まで生き抜く強さみたいな生命力が渋沢栄一の魅力と言われます。
コロナ禍で混とんとしている今の時代。栄一は実業家として得た利益を惜しみなく社会に還元するという資本家の理想的な振る舞いが出来、
胸に手をあて「みんながうれしいのが一番」と考えることを幼いころから教育されていました。
教育は大切ですね。こんなすばらしい人物が日本に存在したことを周知していくために、コロナ禍でタイムリーなドラマになる予感がします。