紺碧の空の意味は?エールより早稲田大学応援歌の誕生秘話を訪ねて

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NHK連続テレビ小説「エール」にはまっています。
主人公は福島市出身で作曲家の古関裕而先生がモデルでした。

朝ドラ「エール」は、古関先生と妻金子の半生が描かれています。文通を経て裕而20歳、金子18歳で結婚。
昭和初期からさまざまな困難を乗り越え、おしどり夫婦として長い年月を過ごしました。

古関先生が作曲された早稲田大学の第1応援歌「紺碧(こんぺき)の空」は、約90年にわたり歌い継がれる名曲となっています。

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紺碧(こんぺき)の意味は?

紺碧(こんぺき)とは、真夏の日差しの強い青空の色のような深く濃い青色のこと。

『 紺色 こんいろ 』とは濃い青色である。
『 碧色 へきしょく 』とは強い青緑色である。

 

「紺碧の空」誕生秘話

「紺碧(こんぺき)の空」は、古関裕而先生が日本コロムビアに入社した翌年の1931(昭和6)年、早稲田大学の応援歌として作曲しました。

当時東京六大学野球で、ライバルの慶応大学に負け続きで四連敗でした。
早稲田大学応援部がなんとかせねばと考え、応援歌に行きつき、新しい応援歌で劣勢を打開しようと古関裕而先生に依頼したと伝えられています。

作曲者を選ぶ際、古関先生を推薦したのが本宮市出身でその頃早稲田に在籍した「イヨマンテの夜」の歌手伊藤久男のいとこでした。
伊藤久男のいとこは早稲田大学応援部幹部だったのです。
新しい応援歌のおかげか5連敗を免れ早大が優勝し、歌い継がれるようになったのです。

その後「紺碧の空」は有名になり、第六応援歌から第一応援歌に昇格したと言われています。

 紺碧の空(こんぺきのそら)
早稲田大学第一応援歌
• 作詞 住治男(1909年 – 1936年)
• 作曲 古関裕而(1909年 – 1989年)

紺碧の空 仰ぐ日輪
光輝あまねき 伝統のもと
すぐりし精鋭 斗志は燃えて
理想の王座を占むる者 われ等
早稲田 早稲田
覇者 覇者 早稲田

青春の時 望む栄光
威力敵無き 精華の誇
見よこの陣頭 歓喜あふれて
理想の王座を占むる者 われ等
早稲田 早稲田
覇者 覇者 早稲田

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出典:Wikisource

作詞したのは、当時(昭和6年頃)の学生。
当時作詞家でもあり、早稲田大学教授だった西條八十氏が、「ほとんど直すところがなく、完璧な出来 」と、絶賛したというエピソードも頷けますね。

「紺碧の空」誕生秘話を探求してみました。

 出典:古関裕而とスポーツ歌から「紺碧の空」抜粋
ところで「紺碧の空」は、どのような経過を辿って作曲されたのであろうか。
昭和初期の早慶戦は比較出来る様なスポーツが少なかったことから、全国的な人気を集めており、選手にも伊達、水原、三原、小川等野球殿堂入りの名選手が活躍していた。

また早大の「都の西北」慶大の「若き血燃ゆる」等応援歌の応酬も全国ファンの血を湧かせていたが、早稲田の負けが多く、「若き血」の力強いリズムにどうしても遅れをとることから、新しい応援歌作成の機運が盛り上り、学内での歌詞募集に踏み切った。

昭和6年4月に応募作品が集まり、選者は西條八十氏に依頼した。この花形作詞家は「これはいい詩だ。しかし作曲が難しいだろう。

山田耕筰とか中山晋平といった大家に依頼しなくては駄目だよ」と応募原稿を部員達に手渡している。これが「紺碧の空」である。作者は当時の学生住治男で、彼もまた古関と同年であった。

作詞者は決まったが問題は作曲者を誰にするかであった。ここで古関を強く推薦したのが歌手伊藤久男の従兄弟の伊藤戊(しげる)であった。伊藤は「兄貴の友達の古関君に賛成してくれよ。

新人だから過去はないけど未来があるよ。国際コンクールの2位に入選したんだよ」と、熱心に説き廻り、難航の末作曲の依頼が決定した。

古関も「名誉な事です。ワセダの為にいい曲を作りましょう」と快諾したものの、応援歌の経験も浅く苦労したらしく、ピッタリしたリズムが仲々浮かばず、特に「覇者覇者ワセダ」の歌詞の旋律は何回も書き直したという。

早大の発表会も目前に迫り、応援団幹部は連日古関宅を訪問し、発表会の3日前にやっと完成したが、「少し難し過ぎる」との批判もあったらしいが、歌っているうちに「これでいける」という事になり双方とも胸をなでおろしたとのこと。

早大は伊達投手の3日間の連投によって栄冠を獲得し、「紺碧の空」は全国に広まった。当時のこの歌は、第6応援歌であったが、今では第1応援歌に格上げされ、その前に作られた5つの応援歌はいつのまにか消えてしまったようである。

古関はその後、早稲田の応援歌を5~6曲作ったと述べているが、戦後は早稲田の「光る青雲」などが有名である。これらの功績をたたえて、昭和51年には、早稲田大学大隈庭園内に「紺碧の空」記念碑が建立されている。
参考文献
古関裕而著『鐘よ 鳴り響け』(主婦の友社)
コンパクト・ディスク「古関裕而全集」(日本コロムビア)
齋藤秀隆著『古関裕而物語』歴史春秋社

当時の貴重なお話でした。早大の応援団もお金がなかったので作曲家の大家ではなく新人の古関先生に依頼が決定したようですね。

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古関先生の長男からエピソード

両親がモデルのドラマ化が決まり、長男正裕さん(73)の感想をピックアップしてみました。

「ドラマ化が決まったことを
 両親が聞いたらどう思うだろう。
照れ屋な父は遠慮がちに笑うかな」

 「母の場合は、父の一番のファンだったから
ドラマ化は『当然よ』と言うかもしれないね」

ドラマ「エール」でも音さんは常に熱血ですが!!

父とは違って、母は情熱的なタイプで社交性のある性格だったから

「妻の自分も中心人物として取り上げられるのは『私なんて』
と照れながらも結局は喜んだと思う。」と。

作曲の仕事は、いつも家の書斎で行っていたそうです。

正裕さんにとって父の印象は「優しくて穏やかな人」。

ただし「声や物音は平気だが、調子外れの楽器の音には我慢できなかった」
とは、天才音楽家ならではのエピソードがあります。

「小学生のとき、コップに水を入れて音階を作り、たたいて遊んでいた。

すると、父が2階から下りてきて『うるさい』とものすごく怒られた。

父に怒られた記憶は、その一度きりしかない」
  

「オリンピック・マーチ」は思い出の一曲

1964年開催の東京五輪の行進曲「オリンピック・マーチ」は、55歳のときに手掛けたもの。
古関先生自身も「一世一代の作」と記すほどの会心の出来栄えと言われています。

この曲がきっかけとなり正裕さんは父の偉大さを初めて知ります。

当時高校生でエルビス・プレスリーやビートルズに夢中でした。

「若いころは父の曲を聴こうと思うことはほとんどなかったが、
『オリンピック・マーチ』だけは『いい曲だ、すごい』と思い、
レコードで繰り返し聴いた。私にとっても思い出の一曲です」
 
              

おしまいに

「紺碧の空」は、早大生なら誰でも歌える『早稲田の魂』と言われています。福島市の早大卒業生たちは「覇者 覇者 早稲田」と同窓会などで歌っておられる様子。

「朝ドラ放映は、古関さんから福島へのまさに『エール』だ」という言葉も聞いています。

朝ドラを機に古関さんの功績と人物を改めて知り、名曲を生み出した時代背景と共にドラマの展開が楽しみです。

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