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紫式部ゆかりの地である廬山寺(ろざんじ)とは?おみくじの元祖のお寺なの⁉歴史を学ぶ

神社・お寺めぐり

2024年のNHK大河ドラマは「光る君へ」です。この作品は、日本で最古の長編小説『源氏物語』を著した紫式部を中心に描かれています。

 

『源氏物語』は、京都を舞台に、魅力的な男性・光源氏を通じて恋愛、栄光と衰退、政治的野望と権力争いなど、平安時代の貴族社会を描いた全54巻の物語です。

 

さらに、紫式部は平安時代中期に生まれた女性で、彼女の作家としての生活や物語の世界観も、主に京都を舞台に展開されました。

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廬山寺はおみくじの元祖良源の創建のお寺

廬山寺は、おみくじの元祖と言われる元三大師良源(慈恵大師)創建の寺なのですね。

紫式部ゆかりの地でおみくじをエックスで調べてみました。

 

京都御苑の清和院御門から東へ進んだ場所にある寺院で、紫式部の住居跡とされています。

この土地は、紫式部の曽祖父である藤原兼輔の邸宅があった場所で、後に紫式部の家族に受け継がれました。

紫式部はここで育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を育てながら『源氏物語』を執筆したとされています。

 

また、境内には紫式部とその娘・大弐三位の歌碑も立っています。

めぐり逢ひて見しや
それともわかぬ間に
雲がくれにし夜半の月かな。

紫式部と廬山寺の関係

廬山寺は紫式部の邸宅を直接お寺にしたのではなく、安土桃山時代に移転してきました。この地が紫式部の邸宅跡と知られるようになったのは昭和40年(1965年)に歴史学者・角田文衛が発表してからです。

この場所は、紫式部の曽祖父である中納言藤原兼輔から伯父の為頼、そして父の為時へと引き継がれた邸宅でした。紫式部はここで結婚生活を送り、子どもを育てながら『源氏物語』を執筆し、その大半を過ごしました。

紫式部が本堂の中を歩いたわけではありませんが、彼女がこの地に生活していたことは確かです。

廬山寺の歴史について

①平安時代:元三大師による創建
天慶年間(938年~947年)の平安時代中期に、比叡山天台の第18世座主である元三大師良源が船岡山の南に「與願金剛院」を建立したのが始まりです。現在の寺名とは異なります。

紫式部は970年代に生まれたと言われており、彼女の父藤原為時や祖父の邸宅がこの地にあったことが考えられます。

②鎌倉時代:覚瑜による再興
寛元3年(1245年)、住心房覚瑜上人が出雲路に廬山寺を再興しました。

③南北朝時代:寺院の統合
南北朝時代の1368年に明導照源上人が二つの寺院を統合し、廬山天台講寺と改名しました。この時、出雲路のお寺は無くなり、船岡山の方に統合されたと考えられます。

この時期、廬山寺は天台、密教、律宗、浄土教の四宗兼学道場となりました。

④応仁の乱による焼失
京都の寺院の多くが焼失を経験しています。廬山寺も例外ではなく、応仁の乱で焼失しました。

⑤信長の焼き討ちを免れる
元亀2年(1571年)、比叡山延暦寺と同じ天台宗ということで信長の焼き討ちを免れました。この件には明智光秀が関わっています。

⑥安土桃山時代:現在地に移転
元亀2年(1571年)の焼き討ちを免れた後、秀吉の都市改造計画により現在の場所に移転しました。実際に邸宅跡にお寺が建てられたのは安土桃山時代です。

⑦江戸中期:光格天皇の仙洞御所の一部を移築
寛政6年(1794年)、本堂と御尊牌殿は仙洞御所の一部を移築したものです。本堂に入ると昔の仙洞御所に入っていることになります。

⑧明治時代:廃仏毀釈からの復興
御黒戸四箇院の一つとして廃仏毀釈後に廬山寺だけが復興し、明治5年(1872年)に延暦寺の附属となりました。

⑨天台圓淨宗として現在に至る
昭和23年(1948年)、廬山寺は四宗兼学の道場として再統合され、「天台圓淨宗」として現在に至ります。

廬山寺へアクセス

廬山寺
所在地 〒602-0852 京都府京都市上京区北之辺町397
TEL 075-231-0355

おしまいに

6月末から9月初旬にかけて、本堂前の「源氏庭」に桔梗が美しく咲きます。美しい庭を見ながら、『源氏物語』を書いていた紫式部に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

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